沖縄の染織

【沖縄県(琉球)の染織】

南国沖縄の染織の数々は、14~15世紀頃 琉球王国の時代に中国や東南アジアなどから伝来された伝統工芸品です。その技術は沖縄の気候風土に育まれながら独自の形を確立し脈々と伝承されてきました。

昭和14年に沖縄を訪れた「柳宗悦」はこの琉球の染織に驚愕し、「このような土地が、当時なおこの世に存在することは奇跡だ」と言って広く世に訴えました。

そして第二次大戦により焦土となった沖縄の染織は一度は廃れかけましたが、戦後 紅型染の城間栄喜氏や絣・首里織の大城志津子氏、読谷山花織の与那嶺貞氏、芭蕉布の平良敏子氏など生き残った職人さんたちの、まさに死に物狂いのご尽力により再生させ、更に新たな感覚による独創的なデザインに発展させて今日に至っています。現在も、日々伝統技法を伝承させながら、新鮮で斬新な現代にマッチした作品を世に生み出しています。

南国の大らかさと自然の恵みだけでなく、琉球王府への上納の為に血を吐くほどの思いで織継いできた女性たち、戦後の復興など様々な島民の歴史的な悲哀をも感じさせるものではないでしょうか。

沖縄の染織

沖縄の証紙

〇琉球紅型

紅型の起源は15世紀前後とはっきりは解っていませんが、中国や東南アジアとの交易を通じて中国の印花布やジャワ更紗などの染色技術が伝来し、現在のような紅型染が確立されたのは18世紀の頃だといわれています。琉球王府、首里、浦添を中心に婦人の礼装として、神事の衣装や王族・士族などが着衣用していました。そして沖縄の気候風土に育まれ独自の技法を持つ現在の紅型染めが確立されていきました。

紅型染めの「紅」は様々な色 「型」は模様を意味しています。(※型染の「型」とも言われています)

分業制で製作する京友禅や伊勢型染などとは異なり、紅型染はデザイン、型紙彫り、防染、染色にいたるまで一人の職人さんが一貫して製作します。
帯地には丹後縮緬や紬地、本麻、芭蕉など全国の様々な織物が使用されます。

【型紙】※防染糊を置くための型紙
型紙の下に「ルクジュー」(豆腐を陰干しして乾燥させたもの)をあてがい(台にして)、下絵に沿って小刀(シーグ)で突き彫りします。この突き彫りにより、紅型独特の立体感が生まれます。
突き彫りによって凸凹になたルクジューは表面を削って平らにして使用します。

【型置き】
生地の上に型紙をあてがい糊を置きます。糊で防染されたところは色が染まりません。

【色差し】【隈取り】
染織には「顔料」を主に使用して柄の部分(糊が置かれていない部分)に色を差していき、その上から「隈取り」と呼ばれる紅型染め独特の工程で色をボカシていきます。この工程が紅型染の原則で、隈取りを施すことで陰影ができ、立体感、奥行、力強さや優しさなど紅型染独特の味わいが生まれます。

【地染】※柄のない帯の地の部分を染める事。
柄の染色が終わると、柄の部分を糊伏せして防染した後、地染します。※一般的には化学染料を用います。

紅型染

紅型染

〇沖縄の織物

【花織】
中国や南方諸島との交易により栄えていた沖縄では、15世紀頃から花織が織り始められたといわれています。そして18世紀にには王府の御用布に指定され、首里の貴族と読谷山の人々以外の一般庶民は着用を禁じられました。

花織には【読谷山花織】に代表される、絵緯と呼ばれる柄用に染織された色糸を用い、柄の部分が表に出て、柄以外の部分は裏を這わす紋織物と、【首里花織】に代表される、地糸の一部を浮かして柄を織り出す浮織物(裏に遊び糸が渡っていません)の二つが代表的な技法があります。
また、首里で製織されてる『花倉織』という花織と捩り織(絽)を併用した織物もあります
沖縄の織物は全て手織りで織られています。

花織を製織されている主な産地
・読谷山(中頭郡読谷村)
・首里(那覇市首里)
・南風原(島尻郡南風原町)
・知花(沖縄市知花)
・与那国


読谷花織


知花花織

南風原花織

首里織

〇琉球絣
インドを起源とし東南アジア各地に広がり琉球に伝わったといわれる絣の技術。いつの頃に沖縄に伝来したかは定かではありませんが、14.15世紀頃と推測されています。
そして沖縄の気候風土にマッチした沖縄独自の絣が各地で織られるようになり、600もの絣模様の種類があります。

多彩な色絣は士族以上の位のものしか用いることを許されませんでしたが、琉球藍で染められた木綿や麻の紺絣は一般庶民にも広く愛用されていました。

第二次世界大戦で壊滅的な危機にさらされましたが戦後生き残った職人さんたちの尽力により復活し現在も織り続けられています。
今では琉球絣のほとんどは「南風原町」で生産されています。

絣は草木や化学染料で「手括り」または「摺り込み」によって染色されて高機で手織りされています。



〇久米島紬

沖縄本島の西に位置する久米島で生産される織物で平成16年9月に国の重要無形文化財に指定されました。

古くは琉球紬とも呼ばれており、日本の紬絣織物の起源と言われています。沖縄本島から奄美大島へ伝わり大島紬、久留米絣、薩摩絣、伊予絣などへ。また日本海を経由して新潟県に伝わり、そこから山形県米沢琉球や結城紬など、日本の絣のルーツになった織物です。

草木染によって染色された経糸には生糸、緯糸には真綿糸を使用して手織りされています。
15世紀には養蚕が行われていた形跡があり、17世紀に貢納布(お米の代わりに税金として納める)となり技術が発展し盛んに製織されていました。以後 明治36年に廃止されるまで税金として納められていました。
貢納布として納める代わりにお米の税金は軽減されていましたが、役人の妻などを除く15才から45才の全ての女性に課せられ、大変負担の大きいものでした。

久米島紬の絣は「手括り」により作られ、ほとんど島内で自生する植物により染色されます。
代表的な黒褐色の地色はテカチとグールで染められ泥染によって媒染されています。
また、福木やクルボー、ヤマモモによって染色された黄色のもの、ユウナで染められた灰色の久米島紬もあります。

また久米島紬の特色として、織り上げられた後に、砧打ち(きぬたうち)することで光沢と柔らかい風合いを出します。

久米島紬